赴くままに。




心の赴くままに、歩みを進めてみようと思った。

しばらく自分の行動を管理しつづける日々が続いていたし。

不器用だから、自分を縛りあげて、鞭打って。

何が大事なんだろうと、思ってしまったんだよね。





いや、大事なことは知ってるけど。

知ってるのにそこに向かえているのかと。

おまえは何をやっているんだ。

なんだか涙がでてきました。

いや、涙がでてきたのは、人のやさししさを感じすぎたから思わず。





いや、歩いてるんですけど、

梅を見ながら。

もしかしてさくら?ってやつもいるね。

わたしの表現って一体なんなんだろ?

これがなくなったら、飢え死にする人とかっているのかな?

いや、いるとしたら一人。

それはあんた、

太田由美本人。





結局は自分のためじゃん。





糸井さんのブログで、こんなことが書いてあった。




 ずっと前に「魚を飼うことは水を飼うことだ」
 と、書いたことがあります。
 これは、その後もずっと思っていることです。
 水が魚を飼うのによい状態になっていれば、
 魚は自然にうまいこと生きていけます。
 
 「水を飼う」という言い方は、ヘンですけれど、
 実感として、魚そのものよりも、
 魚の泳いでいる水の面倒をみている
 という気持ちでした。
  
 そういうことを思う前には、
 やっぱり、魚だけ見てたんです。
 こういう薬剤を入れたら、こういう効果があるとか、
 こういうエサを与えると、こういうふうにいいんだとか、
 ついつい「いいこと」をしてやりたくなるんですよね。
 これをやってると、
 ある「いいこと」の副作用を消すために、
 別の「いいこと」をする。
 そのまた副作用や、過剰な効果を打ち消すために、
 また別の「いいこと」をしたり、やりなおしたりする。
 このくりかえしになるんです。
 ほんとうのしっかりした知識を持ってる人なら、
 そんなことはしないのでしょうが、
 生半可な世話を焼きたいぼくは、やっちまったのでした。

 で、結局のところ、
 水をバランスのとりやすい状態にしておく。
 つまり、あんまり「いいこと」をしないというのが、
 いちばんうまく水を飼う方法でした。
 そして、うまく飼えている水のなかにいる魚は、
 とても元気に育つというわけでした。

 この、魚と水をセットで考えるという方法、
 いろんな問題を考えているとき、
 なにかにつけて思い出すんですよね。

・神さまがいたとして、人間をうまく飼うために、
 どんなふうに水槽を管理すればいいんでしょうか。
 まずは、共食いをさせないことかなぁ。




なんかね、わたしは水以前に、水槽から洗い直さないと、と今回思いました。
もう、副作用のある「いいこと」はやりつくした。
魚が元気で生きていける、自然な水とよい環境をつくるため、まずは自らの水槽からやり直しましょう。







潔く。